【遊劇舞台二月病『Round』】感想【 CQ/ツカモトオサム】
今回の二月病はギャンブル依存症に向き合い、延いてはその奥に潜むIR推進法案を二月病なりにどう受け止め、どのように多岐にわたる依存症に苦しむ人たちに寄り添えるかを、ソーシャルワーカーを務める主人公を通して一つずつ紡いでいく。
一つ一つのケースが重く深い闇を持ち、軽はずみにモチーフとすることは非常に危うい題材である。
これまでの二月病の作品で、多くの社会問題を取り上げ、詳細なデータに目を通すだけでなく、自ら関係者の元に出向き、直接話して取材し、そこから感じたことを作品に載せるのが作者である中川くんのスタイルで、本作で言わば問題を抱える家族や家庭の一つ一つがそれぞれ一本の舞台作品として作り得る題材なだけに、多くの題材を一気に扱うとどうしても上べだけを掬った造りになっしまい、取材から得た貴重な生の声が中途半端にしか内容に反映されて居らず、それが悔しく残念で仕方ない。
本当に伝えたいことを90分に纏める必要はないし、90分で伝え切れないことを無理に90分で伝える必要はないのだ。
一般的に見て疲れない時間や見やすいとされる時間が90分としても、観客が本当に観たい時間はその作品に必要な時間であり、それ以上でもそれ以下でも無い。
見ると観るは違う、客と観客も違う。
二月病に必要なのは客ではなく観客なのだから、上演時間を気にする必要はない。
Mayを見習うが良い。
多くの情報量を誤解なく理解して貰うためには、それ相当の時間を有しても構わない。
主人公の娘をそれぞれに問題を抱える家庭の中心人物に配役し、彼女を中心に全ての家族が周りを廻る演出が素晴らしい。
舞台前面に設えた開閉扉が開口する間口(まぐち・横の広さ)の関係で、客席の両サイドから舞台奥の視認できる範囲が限られてしまい、広い舞台奥の中央だけしかアクティングエリアに出来ず、本来なら場面により広がりを持たせられた筈なのが惜しい。
下手舞台前の主人公と舞台奥、または舞台両端と舞台奥で演じることがほとんどで、舞台を見せる構成を単調にしてしまう。
終盤、奇跡を見るかのような展開で、全ての家庭に光明が射して迎えるラストは、賛否が別れるところだろう。
社会問題の闇を痛烈に観客に伝えるには、ラストにこそ救いを求める手段がどこにも無い現実を残酷に描く必要があるのではと、終演後に中川くんに話すと、今回は秋田雨雀の『骸骨の舞跳』がベースに在るのでと言う。
チラシに少し触れられて居るものの、何故それをパンフレットに書かない?
作品を誤読させるじゃないか!
そんな思いで『骸骨の舞跳』を調べると、大団円に思える結末は実は全て幻で、何も変わらぬ社会を匂わせて終わるバッドエンドであった。
ハッピーエンドは夢まぼろしであり、残酷にも正論や真っ当な行いが社会の闇に呑み込まれる姿を描いてこその名作なのだと思う。
かと言って、このラストがダメだとは思わない。
作品のモデルにした家庭や人物を調べ尽くしたからこそ、自分が作った実在せぬ人物にまで救いを与えてしまう中川くんの優しさがこのエンディングには溢れている。
作品の完成度を上げ、名作に至らしめるには、あまりにも遠い回り道だと思うが、優しさ故に鬼に成りきれない演劇人が居ることも悪くないと思う。
その優しさを失わず、自分の良さを発揮できる舞台作品のスタイルを見いだし、いつか目指す手法を完成させ、私たちに観せてくれるのを心待ちにしている。