【遊劇舞台二月病 Round】 祈る骸骨、嗤われる人間 【無名劇団 中條岳青】
まず自分たちの話で申し訳ないが。
スペドラに三年連続参加した。
その三作品とも「無名稿」で挑んだ。
「無名稿」は近代文学を翻案した作品群。
当然、先行文献があり、諸々の解釈があり。
それらを踏まえた上で、舞台化した。
二月病の中川さんは、取材と研究の人だ。
実際の事件や出来事を調べ、資料にあたる。
同じ種類の人間かな、と思う部分もある。
でも、違うところもはっきりと感じる。
大きく違うな、と思うのは希望の描き方だ。
二月病は、希望を真正面から描いている。
生活に困窮した人々、博打依存症の男。
起死回生をかけて、遊戯台の前に座る。
舞台は大きなパチンコ台を模していて、
猥雑な照明とノイズ、扉の開閉によって、
様々な光景が断片的に現れてくる。
何度も訪れては過ぎ去るリーチが悲しい。
フライヤーには秋田雨雀の名がある。
関東大震災直後に起きた朝鮮人虐殺事件。
その憤りから書かれた戯曲「骸骨の舞跳」。
過去の災禍を現代の格差社会に置き換え、
甲冑や陣羽織を着た日本人の骸骨たちを、
現代の生活保護受給者らに置き換えて描く。
ここである疑問に行き着いた。
主人公であるケースワーカーは、何者だ。
ギャンブルに依存し、家庭と職を失う男。
死んだように生きる男、それならば。
彼もまた、骸骨の一人ではないか。
この舞台は骸骨が骸骨を救う話なのだ。
それで本当にいいの、と疑う。
社会勉強と言い訳して遊んでいたくせに、
何がヒーローだよ、笑わせんな、と。
血肉のある人間が人生の大逆転をする、
そこにこそドラマがあるんじゃないか。
温い懊悩でかっこつけんじゃねえよ、と。
でも、ある意味では納得する。
現代にあってヒロイズムは夢まぼろしだ。
英雄になろうとすれば笑われる。
それが、現代のリアルだ。
だとすれば、せめて虚構の世界の中だけは、
救いがあってほしいと願う気持ちもわかる。
先程リーチが悲しい、と書いた。
届かぬリーチ、それは叶わぬ希望そのもの。
屍となってなお、救世主であろうとする。
そこまで突き抜けた希望を私は描けない。
現実味に欠けるという批判もあるだろう。
優しい物語を書くことの難しさを感じる。
「お気の毒でした、でもやっぱり…」
骸骨の舞跳の幕切れ、死を暗示する言葉。
中川さんはあえて、男にこう言わせた。
「まだ、これからや」、これも虚しく響く。
それは語る口のせいか、聴く耳のせいか。
骸骨のからからとした嗤い声が聞こえた。