【遊劇舞台二月病「Round」】「分からぬ、を楽しめるように」【ステージタイガー・白井宏幸】

スペースドラマ

どうも、ステージタイガーの白井宏幸と申します。
演劇に関わっている人間が劇評を書くのは、まさに諸刃の剣ということで、慎重かつ大胆に。

前半、僕は眠りに落ちてしまいました。
それではいけないと、頑張ってみましたがそれでも最後までぐっとくるものを感じられなかった。
というのが、言葉を繰りぐりする前の感想です。

何せ一番面白かったのがアフタートークというのだから仕方のない。
以降はいろんな人とお話をしたり自分の中にある言語の引き出しを引っ張り出して、わかろうと努力した後の感想です。

「群盲象を撫でる」

中川さんは縁劇フェスのうんなまさんの「Guten Bogen!」をこのように置き換えられました。
僕はうんなまさんの作品にも、ピンとこないままであったのでした。

しかしながら中川さんが、
「青春」というあやふやな事象を、それを知らない者たちに語らせるとこうなるという面白さがあった
という風に評してあって~曖昧な記憶をたどっておりますのでなんともはや~ハッとした記憶があります。

わからないことが面白くないということではないんです。
一応その言い訳をしておくと、眠ってしまうお芝居がダメなお芝居かというと、そうでもなく僕は心地のいいお芝居もあると主張する一派ですので悪しからず。
面白いものがないという人間のうちに「面白くなさ」があると思うのです。
しかしながら、物語を眺めているうちに、僕の心のうちにはグラグラと幾多の思いが去来いたします。
中川さんが描こうとしていた「貧困」という根源的なテーマ。身につまされるほどにずしりと。
なので、前回拙劇評ブログでも記載した通り「演劇で何をするか」ということには成功していると思うんです。
演劇というフィルターを通して見ている僕に、なんだか重い一撃を喰らわせることはできている。

演劇として、僕個人が面白いと思わなかった部分の中に「名前がなかった」ということを挙げます。
当日のパンフレットに役者名と配役名の記載がないという事とは問題が別です。
や、他にもあるんですよ、大きな扉の美術が開閉する、という動作自体が単調に感じてしまうだとか、
劇中で使われる単語についの認識が落ちきらないままに話が進んでいくだとか。が、名前がなかった事。
ケースワーカーが担当した「モデルケース」を眺めているように話が進んでいく。
おそらく意図して描かれた台本だと思うんですが、それが僕にはのめり込めなかった一因だと思います。
加害者にも被害者にも名前があり、その背後には両親や友人がいる、という想像力につなげられなかったんです、一観客として。
最後に逆境を乗り越えてヒーローになる(それ自体が幻想なのかもしれないけれど)主人公にやはりエンターテイメント性、物語性を感じてしまったあたりに描きたかったのは物語なのか?
そういう疑問が浮かんだ際に、登場人物の匿名性というものが妨げになっているのかなとも思ってしまったんです。
子供を愛せない母が少女を殴るシーン。ここにピークを。
たくさんの「名前を持った一人の人間」が血を流す様を見せて欲しかった。
その中で中川さんが信じる一条の光を見せればいいのかなと思ったんです。

演劇的な部分に物足りなさを感じつつも、テーマはぐっと臓器をつかんできます。
失恋などした時にきゅっとなるレントゲンには映らないあの臓器です。
中川さんの中にある優しさやロマンチシズムの様なものが、役者には棘の付いた鞭みたいになってしばきあげればいいのにな、なんて思いました。
もっとやっていいよって思いました。
その道を行くんだって決めたんだったら、もっともっとやっていい。
たくさん調べたんだったら、難しい言葉で語らずに、わかりやすい言葉で頭の悪い僕みたいなもんにもわかるように、もっと苦しんでいる人間を生々しく舞台上にあげてください。