【満月動物園「レクイエム」】物語のリアリティライン【コトリ会議のピンチヒッター】

スペースドラマ

若旦那家康さんからコトリ会議は全員東京公演中なのでピンチヒッターで観劇ブログ書いて欲しいと言われ満月動物園「レクイエム」を観劇。
 リアリティライン、それは簡単にいうとこの物語でこれはありなの?なしなの?どっちなの?というライン。
 明らかに女子高生でない女性が女子高生の制服を着て、いかつい顔で「ピクミン」を朗々と歌い出すという冒頭にまず度肝を抜かれる。或は満月動物園や鹿殺しでは女子高生じゃない人が制服を着て「ピクミン」を歌うというのは当たり前なのかもしれない。しかし新参者の私にはそのようなリテラシーは一切なく、もしかして女子高生じゃない人が女子高生っていう世界観なのかと身構える。よくコントとかで男性が女性の制服を着たりするのは簡単に受け入れられる私がなぜ?
 答えは簡単でそこに批評性があるから。
 ここでいう批評性というのは諦めと自分へのツッコミと同義である
 批評=諦め=ツッコミ
 コントで異性の服を着るというのは異性にはなれないという自明のツッコミがあり初めて成り立つ。最初から私は異性になれると思ってやってる人はいかにも辛い。一歩引いた目線(批評性)を持った人だけ異性になれる。例えばもし、「ピクミン」を歌い出したのが女子高生の制服を着た男だったら話は早かった。なるほど男が女子高生をやるという世界観なんだと納得できたはずだ。しかし今回の「レクイエム」のように10代じゃない女性が女子高生をやるというのは実に判断が難しい。それはマジでやっているのかそれとも一歩引いた姿勢で批評的にやっているのか?
 というのもなんだかもうちょっと頑張れば、今回女子高生を演じた女優さん、女子高生になれそうな気配がしたからだ(何をもうちょっと頑張るのかは不明だが)。
 結局、彼女をどう捉えたらいいのかわからぬまま劇の開始から約30分後、答えは訪れる。
 台本が手元にあるわけではないので正確に引用できないが、登場人物の一人がその女子高生らしき人、ハマダヨウコに向かってこんなことをいう。
 「あんな老け顔の女子高生っている?」(ツッコミ、批評)
 少なくとも私の観た回はかなり客席から笑い声が上がっていたし私も笑った。つまり私だけでなく何人かの観客は、あの人が女子高生っていうのはちょっとさすがに厳しいんじゃないかと思っていたということだ。少なくとも私はそう思いながら観ていたのでやっとツッコミ(批評)が入り、一安心した次第、ここにきて初めて私は彼女を女子高生と信じることが、リアリティラインの線引きが出来たわけである。
 何がありで、何がなしなのか、笑わせたいのか、そうじゃないのか、受け手は何を信じたらいいのか、もしかしたら稽古場では彼女が女子高生をやることはそもそもおかしい、自明のことであったのかもしれないが、いち受け手の私にはそれがわからなかった。それ、問題ですか?と別のツッコミがきそうだが私には問題だった。というのも一事が万事、物語を構成する他の要素もそんな感じだったので最初から最後まで何を信じたらいいのかわからなかったからだ。
 一つだけ例を挙げると監禁のシークエンス。
 監禁という行為はこの作品において非常に重要であることはいうまでもない。監禁がなければ先生はハマダヨウコのことを思い出せないし、監禁がなければハマダヨウコの同級生二人のすったもんだも描けない。極限状態の3人にパンドラの箱を開けさせてしまうという構造、忘れていたものを思い出す物語の王道パターンは監禁によって初めて可能となる。けれどその監禁についてのあれこれが私にはわからなかった。ハマダヨウコの同級生と先生が丸太小屋に閉じ込められるのだが、なぜ3人は外に出ていけないのか、ものすごく鍵のかかった部屋にいるのか、それとも丸太小屋の地下に閉じ込められているのかわからない。別にあの部屋から出れない理由が具体的に受け手にわからなくてもいいのだが「出られない」説得力は絶対にいるわけで、例えばあのような開放的な美術の中で監禁、と言われてもちっとも閉塞感を感じないし怖くもない。回想シーンでは平気で監禁エリアから外へ出ていくので閉鎖空間の緊張感が生まれない。監禁ホラーと銘打っているにも関わらず脚本も演出も監禁についてひどく無関心で、とにかく出れないんです!!と言われたらそれまでだが、私自身は作品を見ながら「こんなの出れるわけない……」と絶望したいし、絶望させるのが作家なり演出家の役目なのではないか。その絶望があって初めてカニバリズムが、ハマダヨウコの死してなお引き継がれる過剰なまでの純愛が成立するのではないか。
 それから人間の本能を露わにする監禁にはセックスと暴力がつきもので、「レクイエム」にもチェンソーや殺人鬼等暴力要素はそれなりに押さえてはいるが、あまりにも性描写に対する演出の腰が引けている。ハマダヨウコの同級生が先生を誘うシーンは本当にあれでいいのか……ポツドールが出てきて多分もう10年以上になるが2017年現在の性描写としてちっとも迫力を感じない。80年代のトレンディドラマ宜く首筋をクンクンするだけでセックスと言われても私はマジでやってるのかパロディとしてやってるのか全然わからない。もしかしたら性描写に迫力なんぞは必要ないと判断されてあのような形になったのかもしれないが私は「レクイエム」にははっきり必要だと思う。もし倫理的に踏み込むことができないのならあのような中途半端なシーンはカットすべきで性の提示をしたいのなら別の方法を選択すべきだろう、やりようはいくらだってある。
 唯一信じれたのは放尿でカレーを作るシークエンスで、舞台上から吐き気と匂いが立ち上がってくる様はまさに演劇で、あれのおかげでぼんやりした監禁に僅かながらのリアリティを付加していた(五感を刺激するのは客席と舞台を繋げるとても有効な手段である。ちなみに私はエロにもグロにも興味がない。監禁劇として必要最低限のものが見たいだけだ)。
 そういえばもう一つ、同級生の雲雀のムッシューにはかなり笑った。あのムッシュー連発は信じられる。頭おかしいやつはムッシューなのだ。狂気と笑いは紙一重といったのは松本人志だったか。あのようなスラップスティックな笑いを畳み掛けてきたら印象も変わったかもしれない。なぜなら笑いは作品を批評するからだ。
 物語の根底をなす先生とハマダヨウコ、それぞれの筋が完全に破綻していることは他の方が書かれていたのでここでは触れない。
 受け手側の信じる信じないのハードルは別に低くて構わないと思う冒頭に書いた女子高生への疑問も多くの人はあれは女子高生なんだと了解しただろう。或は別に監禁のロジックなんていらないという人もいるかもしれない。あの状況に納得できる人もたくさんいたはずだ。きっと私のような人間は少数派にすぎない。私は自分のハードルを軽々超えていく作品と出会いたい、それだけである。
ピンク地底人