【無名劇団「出家とその弟子」】乞わせる事の罪。【遊劇舞台二月病 作・演 中川真一】

スペースドラマ

この物語は親鸞の弟子である唯円と遊女かえでの恋の物語である。
しかし、状況が二人の関係性を複雑なものであると誤解させていく。
物語終盤になるにつれ、ジリジリと明かされていく親鸞とその子、善鸞の確執。
これがとても憎たらしいのである。
親鸞が愛した女性。我が子を愛した女性。
善鸞が焦がれた女性。善鸞に焦がれた女性。
この確執がとても素直で人間らしいのである。
親鸞と善鸞の二人の親子が同じような迷いの中で溺れているのである。異なるのは立場のみである。
立場故に親鸞は無条件に非が無いとされ、己の間違いが正当化されていく苦しみを与えられる。許したい者を許す訳にいかなくなる苦しみである。
立場故に善鸞にのみ非があるとされ、迷いの中に身を置く事を悪とされ、自堕落であると断罪される。どう足掻こうが悪とされるうちに、求められる悪を己に宿してしまう。願わぬ道を進む苦しみである。このジレンマがなんとも憎らしく歯がゆい思いをさせる。
唯円は唯一人、この親子の共通点を見つけ。救おうとした僧であった。
他の僧は、己の考えを持たずに親鸞さまは正しい。正しく生きよと盲目になってしまっている。正論の庇護の元でバカになったのである。
バカになった僧には、迷いの中で仏道を探る唯円と善鸞は排除すべき悪と判断されてしまう。
このバカになった僧がこの無名劇団さんの作品の要だと、私は思った。
考えを放棄したものたちが、決めつけで断罪する事の恐ろしさ。集団の力。
考えを放棄した愚か者たちが、より多くの苦しみを産む。
非常に現代的な警鐘を鳴らしているのである。
歪められてしまった。唯円が乞う愛の形。唯円に乞う愛の形。
私たちも逃れるのは難しいかもしれない。しかし、生きているかぎり、何度でもチャンスはある。何度でもやり直せばいい。そういう強さを描いた作品でもあると思った。