【無名劇団「無名稿 出家とその弟子」】ぴーりかぴりらら【福谷圭祐(匿名劇壇)】

スペースドラマ

お世話になっております。

無名劇団「無名稿 出家とその弟子」を観てきました。

出家とその弟子、という作品のことを知らなくて、これを気に読んでみようとしましたが、なんだか難しそうな匂いがした、かつ長かったので断念。とは言え、無名稿というのは現代社会の問題と絡めて近代文学を云々というものらしいので、やっぱり元ネタを知っておかないと何がどうなっているのかを分析できないような気もしている。

流し読みすらしていない、文字面眺めの印象としては、諸々書いてある中身から、より「何かを信じる心」にフォーカスしたような感じかなと思いました。現代社会では「信頼」が失われていて、それに問題提起する作品という感じでしょうか。

好き嫌いで言うと、僕は笑いのある作品が圧倒的に好きなので、笑いがほぼ無かったこの作品では、満腹感は得られず。また、なんだろう、ものすごく「学校で無理やり観せられた、あの感じの芝居」っていうのを思い出した。きっと良く出来てるし、素晴らしい舞台なんだろうけど、「……プレステやりてーな」と思っちゃったあの感じ。あるいは僕こそが、現代社会の闇そのものだったりするので、なんだかややこしいが。怒られているような気持ちになっちゃうんだよね。活字離れの張本人だし。こうしてたくさんの文字を連ねれど、youtubeには敵わないと思っちゃってるし。

すごく「無名劇団」っぽいと思ったのは、その特徴の無さでした。オリジナリティがない、とまでディスるつもりはないですが、なんなんだろうこの感じ。無名稿を初めて観たし、無名劇団も初めて観ましたが、もっとこう、「何その独自の解釈!?」みたいなものが観たくなってしまう。まあ元ネタを知らんままなのでどうしようもないが。「無名劇団」っていう劇団の作る作品って感じがすごくした。んで、僕は「再構築屋ぐりぐりナウローディング」とかいう劇団名の集団が作るようなもののほうが観たいのかもしれないな、と。

もし普遍的な部分を真に抽出するのなら、もっと取り除かないといけないことが多いのかもしれない。南無阿弥陀仏すらも取り除いて、「ピーリカピリララ」にしちゃうくらいのことが必要だったりするのかもしれないな。そうして、ピーリカピリララと唱える人を笑ったり、あるいは笑えなかったりすると、かなり僕好みの味になっていたかもしれない。

あ、あと書のチカラってすごくて、あんだけドーン!と南無阿弥陀仏があったら、なんかもう変な気持ちになって、舞台上を「よい……全ては…よいのだ…」というような謎の気持ちになってしまったりもした。仏さまの気持ちになると、エンターテイメントって楽しめるのかな。ハラハラドキドキ、と真逆の、「よい…全ては…これでよい…」となると、こんなやつ、何観てもおもろないんとちゃうか、というような気もする。参観日の保護者の気分か?保護者になったことがないからわからんけど。しかも保護者は保護者でハラハラしてそうだけど。

転換の曲については、アンマッチだと感じた。強烈に現実に引き戻される感覚があった。

あと、今匿名劇壇の公演中で、見づらい席が多くあって、結構お叱りも受けています。真摯に受け止めるし、ジレンマも感じる。それと似たような感じで、開演前にクラウドファウンディングの宣伝をされるのは、ちょっといかがなものかと思った。作り手としてそこに絶対ジレンマはあるだろうし、もやもやもしてるだろうが……。小劇場は辛い。プロ意識と、プロとかどうでもいい芸術家意識と、アマチュア意識が混在して、苦しんでる。

わかってんだよ、わかってんだけどさ。

以上!

拝見させていただきまして誠にありがとうございました!

(了)